前編では、主に兵庫県豊岡市長時代のお取り組みについてお話を伺いました。
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中貝 宗治
(なかがい むねはる)兵庫県豊岡市下宮で生まれる。豊岡南中学校・兵庫県立豊岡高等学校。京都大学法学部を卒業後、兵庫県庁に入庁。兵庫県議会議員を3期務めたのち2000年に退職。
2001年~2021年 豊岡市長。2000年には『鸛(こうのとり)飛ぶ夢』を執筆するなどコウノトリに懸ける思いは強く、市長転進後は、コウノトリの野生復帰をシンボルにしたまちづくりに取り組む。
このほか、「子どもの野生復帰大作戦」、「豊岡市環境経済戦略(2005年)」など独自の政策を推進したことでも知られ、更に、「演劇のまちづくり」を進めるための精力的な取り組みを続けていることでも知られている。現在は、一般社団法人豊岡アートアクション(TAA)理事⾧。 -
古見 彰里
(こみ あきのり)大手コンサルティングファームのパブリックセクターチームにて公共機関向けコンサルティングおよびプロジェクトマネジメントを多数経験。自治体向けサービスの統括を行う中で、地方の活性化を強く志向。
その後、開発センターを北海道で立上げ。2010年にグラビス・アーキテクツ株式会社を設立。公共機関や地方の中堅企業向けにテクノロジーを活用したコンサルティングを展開。
市長時代のお取り組み
豊岡の梁山泊『とゞ兵』での対談
古見
今日はめずらしく、兵庫県豊岡市にある『とゞ兵』という場所に訪問、対談をしています。すこしご紹介をいただけますか。
中貝さま
95年ぐらい前に建てられた豊岡随一の旧老舗料亭です。耐震性などの問題から取り壊してコンビニにする計画があったのですが、非常に趣がある建物なので、今のオーナーのパートナーが豊岡出身だったことあり、その伝手で保存を訴える人たちが働きかけて、購入が実現しました。いまでは、いろんなイベントやコンサートが開かれたり、バッグやイタリアンのお店、カフェ、豊岡アートアクションの事務所が入ったり。ここは豊岡の梁山泊みたいな感じですね。
古見
いろいろな人の接点ができて新たなビジネスが始まったり、繋がったりする。人間関係が希薄化しているこの時代、あえて接点を作ることは、まち作りの大きなヒントだと思います。
コウノトリ『も』住めるまち
古見
市長時代の取り組みのうち、コウノトリも住めるまち、についてお伺いできますか。
中貝さま
コウノトリは羽を広げると2mもある白い大きな鳥です。かつては全国各地で見られましたが、明治時代のハンティングや戦後の環境破壊、農薬で激減してしまいました。
1955年、当時の兵庫県知事がコウノトリを守ろうと言い始め、1965年、野生の鳥を捕まえて人工飼育が始まりました。でも最初のひながかえったのは25年目の春、1989年でした。その2年後に県会議員になった私は、野生のコウノトリを見にロシアに行きました。すると現地の研究者が「中貝、コウノトリばかり見るな。豊かな自然があって、その生態系のトップにコウノトリがいるのだ」と言いました。
あぁそういうことか、と気づきました。コウノトリ「も」住めるまちを作ろうと。あんな鳥でも野生で暮らすことができるぐらい生きものがいっぱいの自然を作りあげたら、赤ちゃんを安心して育てることができる、人間にとっても良い自然だよね、と。これが「も」の発見でした。
古見
言葉に意味を込める。しかも「も」の一文字。コウノトリ「も」住めるまちということで長く取り組まれてきた結果、豊岡市はどんな変化がありましたか?
中貝さま
市役所が自走する職員集団に変りました。「コウノトリも住めるまち」は、すばらしい目的地だと理解し、共有したからです。「も」に普遍性があるために、みんなが面白がったんです。
農業担当は、有機農業を広げるためにどうしたらいいかとか、できたお米をちゃんと高く売って農家の苦労に報いなければとか、自分たちで考えます。ある職員なんか、スーツケースいっぱいに米の見本を詰め込んで、ニューヨークを走り回りました。もちろん予算をつけてくれと言いにきますが、自分たちで考えて、持ってくるようになった。
農家の皆さんにも変化がありました。当時の農家の皆さんたちは、農薬を使って環境や健康に悪い作物を出す、しかも補助金漬けだと批判されて、農業に対する自信や誇りを失っていました。そこから、誇りを取り戻した。ある80歳を過ぎた男性は、もっともっとコウノトリ育む農法がやりたいと言ってトラクターなどに1,000万円近い投資をしたそうです。
今この辺りのJAの看板商品は「コウノトリ育むお米」です。輸出もされていて、アメリカのハリウッドでは1kgあたり20ドルです。経済にも繋がるなど、大きなうねりを作るベースになった気がします。
古見
縦割りの弊害を壊す言葉として「も」 があった。良いコンセプトは組織を動かすんですね。
中貝さま
あらゆる所で、「コウノトリ『も』」の話をしました。例えば農家の方から「農薬を使わずに米作りなんていいやがって」と言われます。私は絶えず「コウノトリ『も』なんだ。すごく大切な仕事なんだ」と言い続けました。これが職員の風よけにもなるし、みんなの心にも入りやすかった。そのうちに「コウノトリの郷公園」ができ、2005年には秋篠宮殿下と妃殿下が来られて自然放鳥がなされました。徐々に理解者が増えていきました。
古見
物質的価値よりも、意味的価値を大切にしながら、観光や経済に繋げていかれた。当時は、物質的価値の方が高いと思われていた時代ですが、戦略はありましたか。
中貝さま
最初はコウノトリが中心だったのですが、「も」の獲得で一気に世界が広がりました。「も」の中に、いろんなものを持ち込めばいいわけで、「経済『も』」になったんです。環境行動の持続可能性を確保するには、経済を敵に回さずに、味方につけた方が得だと。そこは手段ですね。お金儲けにしか関心がない人でも、環境を良くすることで儲かるなら入ってくるだろうと。初めはお金しか関心がなかった人も、どうぞ環境で儲けてください、と言っているうちに、やがてその人自身が環境派に変わってくる。その企みは仕込んでいました。
古見
戦略的に動かれたということですね。「も」の一文字がそこまでまちを変えるという。
中貝さま
コウノトリファンクラブの会長でもあった柳生博さんが「確かな未来は懐かしい風景の中にある」と仰っていました。私たちは懐かしい風景を、共有したのだと思います。コウノトリの野生復帰の取り組みは、もう一度それを作り上げようというものでした。
ジェンダーギャップ解消の取り組み
古見
人口問題などさまざまな背景がある中で、ジェンダーギャップ解消にも取り組まれています。
中貝さま
2015年の国勢調査では、20代の豊岡市への回復率が男性52%、女性27%。5 年前から見ると、男性の回復率は17ポイント上がっているのに、女性は6ポイント下がっていた。当時私たちは人口減少対策を必死に考えていたので、この差を見たときにぞっとしました。女性の数以上に夫婦はできません。僕たちは、若者に帰ってきてほしいがために魅力的なまち作りを進めてきたのですが、その横でジェンダーギャップが逆噴射していました。これは少子化を加速させるとんでもない危機だ、とあらゆる所で大変だ大変だと言い続けて、2018年ぐらいにまち作りの柱の一つに決めました。
まずはジェンダーギャップがこんなに損をもたらしていますよ、と企業への働きかけから始めましたが、途中から女性たちの生身の悔しさに気づいたんです。
豊岡市役所で初めて部長になった合併前の小さな町出身の女性職員が退職間際に、「その町では女性が課長補佐になることなど夢のまた夢だった。自分は幸いにして部長になることができたが、豊岡市の女性職員は様々なことを断念してきた」と言っていました。これはこたえました。約半数の職員にそんな思いをさせてきたのか、経営者として申し訳ない、そもそも僕たちの社会はフェアプレーをしてきたのかと。
2019年の国際女性会議のシンポジウムで「結局はフェアネスの欠如だ」と言ったときは、会場がざわめきました。壇上から降りる時には、名刺交換の列ができていたほどです。それを見て、あぁこれは大変なことに取り組もうとしていると感じると共に、早くやった方が勝ちだなとも思いました。
職員たちの熱量は恐らく日本一です。やればやるほど、いろんなメディアが取材にきます。これもモチベーションになっているかもしれません。
古見
職員の方も、世の中から注目される大切なことをやっている、まさにプライドのようなものに火がつく武器を与えてあげることもリーダーの仕事の一つですね。
演劇のまちづくり
古見
演劇のまちづくりについても、始められたきっかけや思い、現在地を教えてもらえますか。
中貝さま
まちにとってプラスになる、というどちらかというと打算的な考えでスタートしました。長く閉館されていた近畿に現存する最古の芝居小屋『永楽館』を復活させて、歌舞伎をやりました。今では夜中から並ばないとチケットが取れない状態です。演劇は、見た人たちが帰りに身体を火照らせて、面白かったとか、人生観が変わったとか、その人の内面で受け止める。しかしそれだけではありません。まちは華やぎ、蕎麦屋も土産物屋も旅館も賑わう。アートは劇場やホールからあふれ出て、まちに影響を与えることに気づきました。
古見
ポーターが提唱している競争優位の三つの原則、コストリーダーシップ、集中、差別化の中で、豊岡として特徴的なものを演劇に見いだした点が差別化だと感じました。
このようにストーリーを持ってお話できるリーダーの方がいらっしゃるかどうか。他の自治体にもそういうリーダーシップが必要だと感じます。
後編では、自走する組織とリーダーシップ論についてお話を伺います。